【伯耆流とは】

 伯耆流の開祖は片山伯耆守久安公です。1575年に生まれていますので、活躍した時代背景は豊臣秀吉の最盛期から江戸幕府初期にかけてでしょうか。居合の始祖、林崎甚助重信公に師事した説と、伯父の松庵に師事した説の二説あります。


【片山伯耆守久安像(岩国徴古館蔵)】

 その後、京の愛宕社で夢に「貫」の一字を悟り、流儀を開いたと言われています。このため「一貫流」と称しましたが、あまりこの名前で呼ばれず、「伯耆流」という名が定着しています。
 
【京都の愛宕神社】

 関白・豊臣秀次、秀頼を指南し、その名声は高まり、慶長十五年(1610年)には、後陽成天皇の御前で「磯波(いそのなみ)」を天覧に供し、従五位下・伯耆守に叙任されたと伝えられています。

 大阪夏の陣(1615年)では大阪方で参戦し、豊臣家が敗れた後は二君に仕えるを潔しとせず、諸国を廻り、安芸(広島県)を経て1616年に周防(山口県)の岩国を訪れました。そして岩国藩主吉川広家に賓客の礼をもって迎えられ、岩国を永住の地と定め、その子吉川広正を指南しました。その後、久安公は岩国で没し(1650年)、墓は現在の岩国市錦見にある普済寺に祀られています。

【片山伯耆守久安の墓(普済寺)】

 久安公は、争いに至る前に平和的に解決することを最上とし、武の修練は自分の身を守るための手段であることのみならず、平らかな精神状態を保つための精神修養でもあるという考え方でしたが、この精神は伯耆流の武技にも色濃く反映しています。

 熊本藩では、久安公の弟子によって伯耆流居合が伝えられました。
初代藩主、細川忠興は伯耆流の居合に適した肥後拵(ひごごしらえ)という刀装を考案するほど熱心でした。

 熊本藩では、肥後三芸といって伯耆流居合、四天流組討、楊心流薙刀術の三つを修練していましたが、その肥後三芸を指南していたのが星野家でした。現在伝えられている伯耆流居合は星野家に伝わったものです。星野家は、その後度々岩国を訪れ、居合を修正しながら、熊本で伯耆流居合を伝え続けました。

 明治維新後、廃刀令(当時の士族に反対の声が強く、各地で士族の反乱が起こりました)により居合は衰退の一途をたどりましたが、伯耆流においては、当時の宗家、星野九門先生の御尽力で再興の端緒が開かれました。

 十二代宗家、星野宣敏先生の代に大阪に居を移し、広く後進の指導にあたられました。宗家亡き後、加納武彦先生が代表に就任され、兵庫県尼崎市に後進の指導の場を移されました。加納先生の教えは今も日新館に脈々と伝わっています。



 【系譜】






習気の理(しゅうきのり)
一、習うとは 術と理を繰り返し 強靭な体躯と精神を養う事を云う
一、剛柔高下(こうじゅうこうげ)とは 己を悟(し)り己を養い 高尚なく卑しくも無く 日々明瞭柔和(にゅうわ)な事を云う
一、青陽之気(せいようのき)とは 生命(いのち)の尊厳を知り 知慮(ちりょ)が広く麗らかな事を云う
一、虎猫之気(こみょうのき)とは 知恵を備え不動の心を持つ 鞘の中の勝ちを云う
一、海中之気(かいちゅうのき)とは 海の如く心の器を広く持ち 何事にも思慮深く清浄な事を云う
一、不待之気(ふたいのき)とは 来るから待つのか 待つから来るのか 人に迷わず色に迷わず 不退転(ふたいてん)の己を持つ事を云う
一、握気(あっき)とは 本日ただ今を一大事と云い いかなる時も正道(せいどう)を歩く 平常心を持つ事を云う




Copyright(C) nisshinkan